魂の家族を求めて第2章

この文章は以下の書籍から許可を得て転載しています。

魂の家族を求めて―私のセルフヘルプ・グループ論
斎藤 学
小学館
売り上げランキング: 80,384

2. ウィリアム・ウィルソンからビル・Wへ ?ひとつの回復物語

もう少しビルとその仲間たちのことを書く。12ステップを使ったセルフヘルプ・グループと、それを通じての回復について知るには、この人たちの理解が必要だと思うからである。彼らの破綻と回復の物語は、いま現在も繰り返されている数多くのアディクト(嗜癖者)たちの「回復の物語」のアイソモルフィズム(類型結晶)であり、20世紀という時代のオデッセイ放浪譚である。現代では英雄叙事詩の主人公は嗜癖者の姿をとるのかもしれない。

 ビルがさかんに飲み、入院を繰り返したのは1920年代初頭から1934年の間であるが、この時代のアメリカは禁酒法(1920?1933)をしき、1929年には大恐慌があった。そしてウィリアム(ビル)・ウィルソンは株屋であり、大恐慌の直前にはウォール街で少しは名前の知られたブローカーの一人だった。この年代の直前と直後、アメリカは第一次および第二次の世界大戦に加わり、後者では主役を演じた。ビルは1918年、士官として従軍しており、株式ブローカー、ビル・ウィルソンが、AAのビル・Wとして変身を完了するのは第二次大戦の最中である。こうしてみるとビル。Wは20世紀のアメリカというものが結晶したような人物である。

 20世紀はアメリカという国にハイライトの当てられた時代であったが、ルーズベェルトやケネディがその光の部分を担っていたとすれば、光を際立たせる影の部分にビルとその仲間たちがいる。そして、われわれが今世紀のアメリカから受け取るべき最大の贈り物は、この影の中から生まれてきた。

* ビル・ウィルソンの破綻

ビル・ウィルソンはアメリカ東部ヴァーモント州のしっかりした家庭で生まれた。父は石材掘削技師、母は整骨医で3歳年下の妹がいる。父親は酒飲みのほがらかな人、母親は感情をおもてに出さない厳格な人で、このやや不似合いな夫婦はビルが11歳のとき離婚した。母親は、整骨医として名を成すほどに仕事に精を出したので、ビルと妹は母方の実家に預けられ、祖父母にかわいがられて育った。

 幼い頃から機会いじりが好きで、学校もノーウィッチ大学という士官学校で工科系の勉強をした。しかし兵役や従軍の義務を終えた24歳の時に軍隊を辞め、ウォール街の証券会社の調査員になり、夜学でブルックリン法律学校に通っていた。母方の祖父の強い勧めであったといわれている。この間、18歳頃からニューヨークの医師の長女でビルより4歳年長のロイスと交際し、1918年、ヨーロッパへ出征する直前に結婚式をあげた。ロイスは3度妊娠したが、いずれも子宮外妊娠で2人は子供を断念しなければならなかった。

 ビルがはじめて酒を口にしたのは20歳を過ぎてからである。彼の飲み方にははじめから問題があったようだ。飲みだすと爽快で多弁になり、つい飲みすぎることが多かった。彼の父はアルコホリックではなかったが、父方の祖父は明らかなアルコホリックであったという。母方の実家は教育家ぞろいの堅い家柄で、酒をまったく飲まなかった。ビルの初飲が遅いのもそのためである。

 ビルの酒の飲み方を11歳のときの両親の離婚に関連づける人もいる。いまと違って、当時のアメリカでは離婚は珍しく、多感なビルにとっては友人たちとの関係その他でこたえただろうと言うのであるたしかに明るくて率直で機械いじりの好きな父親をビルは好いてもいたし、頼りにしていた。「その父と急に会えなくなったことはことえた」とビル自身が言っている。

 母親との関係が重要だと言う人もいる。きわめて意思の強い母親でりっぱな人だったが、ビルはこの母親にくつろぎや暖かさを感じたことがなかった。おまけに11際以後は実家に預けられたままだったから、祖父母には良くしてもらったものの、ビルと妹は置き去りにされた感じをもち続けたという。もちろん、ウォール街での激しい勝負の世界も彼のアルコール問題を悪化させただろう。

 1919年に株取引の仕事についてから、ビルは読みの鋭い証券アナリストとしてしだいに注目されるようになっていたが、1929年の大恐慌がすべての成功を吹き飛ばした。立ち直りのチャンスと見えた場面も何度かあったが、そのつど酒に足をとられ、ウォール街での信用も維持できなくなってきた。以上はビル・ウィルソンの略歴である。以下はアルコホリック、ビル・Wの回生の物語である。

* 治癒不能の宣告

 ビルの入院は1933年秋、1934年夏、最後が1934年12月11日からの1週間で、いずれもニューヨーク市のタウンズ病院であった。この病院は1920年代からアルコホリズムの治療で有名で、当時はシルクワース(Silkworth,D.W.)という神経内科医が医長を務めていた。シルクワースはアルコホリズムのアレルギー説というわれる学説で知られた人である。アルコホリズムの発生を考えるには意志薄弱というような個人の人格的欠陥といった視点からではなく、アルコールに対するアレルギー類似の体質的基盤をも考慮すべきであるというのがシルクワースの考え方であり、現在さかんなアルコホリズムの素因研究の先駆者の一人である。

 第1回目の入院でビルはアレルギー説をはじめて知り、自分の病気の原因がわかったことに喜びながら自信をもって退院した。しかし1ヵ月あまりで飲みはじめ、激しい被害妄想と自殺企図のために2度目の入院となった。この時シルクワースは、ビルの妻ロイスに、「彼の病気は精神的にも身体的にも取り返しのつかないところまで進んでいる。いずれ、狂うか死ぬかするだろう。そうしたくないなら閉じ込めてでもおくほかない」と治癒不能の宣告をした。ビルはこれによって恐怖のとりことなって退院するが、数ヵ月後、1934年11月11日に誘惑に負け、ジンのことしか考えられない連続飲酒の状態に入った。

 そんな11月のある日、学校時代からの友人、エビィ・Tから電話があった。エビィは東部の名家の出だが、酒で身を持ちくずしているとビルは聞いていた。しかし訪ねてきたエビィは以前とは全く違う人物になっていた。ジンに手を出さないエビィに「一体どうしたんだ、名にがお前の中に入りこんだんだい?」とビルは聞いた。エビィは「宗教だよ」と答えた。

* エビィとローランド

エビィの兄は東部のある町の市長を務めていた。エビィは自分の酒が兄に迷惑をかけるのを恐れて町を離れ、放浪した後、廃屋となった生家に戻り、一人でペンキ塗りをする毎日を送っていた。彼は酩酊罪(アメリカでは公衆酩酊罪が1971年まで続き、悪質な酩酊者は拘留され裁判にかけられた)で2度捕まっており、3度目には6ヵ月の懲役に服することになっていた。そうした彼をオックスフォードグループ(1938年、同名の英国の大学から抗議を受け、モラル・リアーマメント:MRAと改称)という宗教団体の人たちが訪れ、いっしょにペンキ塗りをしてくれた。その中にエビィに強い印象を与えた人物、ローランド・Hがいた。

 彼はロード・アイランドの名門の出で、一族は鉱山の所有者であり、彼自身、ある化学工業会社の社長を務めたことがあった。その酒歴は猛烈で、全国を放浪してまわったが酒から離れられず、スイスに渡って、カール・ユングのもとで治療を受けたが、帰国するとまた飲みはじめた。ふたたび訪れたローランドに対し、ユングは治療を断り、彼の嗜癖を治す道は「霊の覚醒」だけだと言った。ローランドは、「神ならもう信じています」と抗弁したが、それに対してユングは信仰だけじゃだめだ、身にしみるような宗教的な体験が必要だ、と言って宗教運動へ参加してみるようにと勧めた。ローランドはアメリカに戻ると、オックスフォード・グループの素朴な教義にひかれ、この団体に身を投じた。そして飲む必要がなくなった。

 ローランドたちの助けを受けてエビィのペンキ塗りの仕事ははかどり、やがて終わった。仕事がなくなると、エビィはまた飲みはじめた。そしてある晩、鳩が屋根に止まっているのを見てライフルで撃った。せっかく縫ったペンキが汚れると思ったのである。近所の人が当局に苦情を言い、これでまたエビィは法廷に立たされることになった。この時、ローランド・Hがすばやく介入してエビィを救った。彼は判事にエビィを預からせてほしいと申し入れ、次t買うに連れ帰ったのである。以来エビィはオックスフォード・グループに身を寄せ、ニューヨーク市のカルバリィ教会で宿無しの人たちの世話をしていた。その時、ビルの惨めな状態を噂で来て訪ねてきたというわけである。

 ビルはエビィの変身にショックを受けた。神とか教会とかから離れて久しかったので、そちらの話は耳を素通りしたが、飲まないですんでいるエビィがうらやましくてならなかった。数日後、ビルは酒をひっかけながらエビィの働いていたカルバリィ教会に出かけ、説教に参加したりしはじめた。しかし、酒は止まらず惨めさは増すばかりだった。12月11日、飲みはじめてちょうど1ヵ月目に、ビルは無性にシルクワース医師に会いたくなり、妻に書き置きして一人で入院してしまった。

* 霊的な体験

1週間後の1934年12月18日がビルの最後の退院になった。治療が終了したのではない。治療を続ける金が無かったのである。自宅に戻った時の彼は絶望と抑うつの極にあった。その数日後、エビィが訪ねて来た日に起こったことを、ビルの伝記にそってたどってみよう。

「彼らはふたたび台所のテーブルに向かい合って話した。エビィの訪問でビルの抑うつは多少治まったが、彼が帰るとふたたび不快メランコリーにすべり落ちていった。終始一貫自分を愛し続けてくれた妻のロイスをひどい目にあわせていることが悲しかった。彼女との素晴らしかった日々が思い出された。しかし、それもおしまいだ。自分は間もなく死ぬか狂うかするだろう。この絶望の中でビルはすすり泣いた。『何でもします、はい何でも!』彼はこの時、完全に屈服し、自分の身を預けたのだ。

 駈れは泣きながら乞うた。『神様、おられるなら姿をお示しください。』その直後に起こったことは衝撃的だった。『突然部屋が言いようもない白い光に燃え上がった。形容を絶する恍惚の感じに包まれた。……それから、心の目の中に山が見えた。私はその頂点に立っていて、そこにはすさまじい風が吹きさんでいた。空気の風でなく魂の風だった。偉大な透明な力で私の中を吹き抜けて行った。その時、“お前は自由だ”という考えが燃え立つように沸いてきた。どのくらいの時間こんなことをして過ごしたのか覚えていないが、そのうち段々光や恍惚が遠のいて部屋の壁が目に入るようになってきた』

 この日以来ビル・Wは神の存在を身近に感じるようになり、飲まなくなった。39歳の誕生日が過ぎたばかりの時だった」

ビルは自分の体験がアルコール幻覚のように思えたので、すぐにシルクワースを呼び出して意見を聞いた。「先生、これは現実でしょうか?私はまだ正気ですか?」。シルクワースは次のように答えたいう。「私にはわからないが、君はそれにすがりついた方がいい。何であれ、ほんの数時間前までの君よりいいさ」

 その後の数ヵ月、ビルはオックスフォード・グループでエビィたちの仕事を手伝いながら、何かものたりないものを感じていた。アルコホリックに会いたかった。その仲間に自分の体験を語りたかった。

 そんなある日、シルクワースは「説教ばかりしていないで、君の経験をほけのアルコホリックにはなしてあげたらどうかね」と言った。「まず次から次へ伝えていって、それからオックスフォード・グループで掴んだものを与えていったらいいだろう」

 ビルはすぐにもそうしたかったが、救済の旅に出る経済的なゆとりはまったくなかった。そうした時、ビルの回復を信じた一人の友人が仕事をまわしてくれたために出張が必要になり、この旅がビルの運命を決定的に変えた。

* 天の恵み

1935年4月、ビルはオハイオ州のアクロン市で、ある会社の乗っ取りに奔走していた。株の取得は順調にすすみ新会社の設立は確実というところまできた。ビルは新会社の経営陣の一画を占めるはずだった。久しぶりにビルは仕事で燃えた。これでロイスを働かせないですむようになると思った。しかし株主総会では会社側の防衛が功を奏して、ビルたちが敗けた。ビルたちの数週間の努力は水の泡に帰した。訴訟問題になった。ニューヨークから乗りこんだ仲間たちはビルを渉外担当としてアクロンに残して引きあげてしまった。ビルは失意のまま見知らぬ町でひとり週末を過ごすはめに陥った。午後5時、ホテルのバーからの賑わいが彼を誘惑し、“ホンの一杯”という考えが頭の一隅を占めるようになった。その時、彼はシルクワース医師の勧めを思い出した。

 彼は意を決し、ホテルに備えつけの数十に及ぶ教会の住所録の中から1つを選んで電話した。「私はアルコホリックです。同じ問題で困っている人と話したいのでこの町のアルコホリックを紹介してほしい」と言ったのである。当時のアメリカで、ひとかどの人物と思われていた人がアルコホリックであったとあばかれることは社会的自殺を意味していたことを理解しないと、ビルの電話の切迫性が伝わってこないかもしれない。幸いにも電話に出た牧師はオックスフォード・グループに属する人だったが、アルコホリックの知り合いということになると、さすがにこころあたりがなかった。その代わり彼は10人の友人の名前と電話番号をビルにくれた。

 ビルは次々に電話したが、9番目までは空振りに終わった。そして10番目の人の名前を見た時、すべてあきらめようと思った。その人の姓は現に彼が乗っ取りを狙っている会社のオーナーと同じだったのである。あるいは縁者かもしれない。しかしビルに選択のゆとりはなかった。ヘンリエッタ・セイバリングという女性が、その運命の電話の相手であった。以外にも彼女はビルの電話を受けて、「まぁ、なんてラッキーなんでしょう。これこそ“天の恵み”だわ」と叫んだのである。彼女はビルがかかわっていた会社の関係者ではなかったが、土地の名門の一族で、当時ひとりの友人のことで頭を痛めていた。

 その友人はアン・スミスといって土地の外科医の妻であったが、夫のアルコホリズムのことで悩み抜いていたのである。その夫、ドクター・ロバート・ハルブロックス・スミス(ボブ)は当時55歳、かつては有能な医師として、この町の人びとの尊敬を集めていたが、その頃は避けで荒みきっていた。ビッグ・ブック(AAの聖典である『Alcoholics Anonymous』1939年初版?のこと)の第11章に「家庭は崩壊寸前で、妻は病気になり、子供たちは気ちがいのようになっていた」ある医師のことが書かれているが、それはボブのことである。

 この2人の出会いから、1935年6月10日にボブが酒を止めたときまでのことは、前章に書いた。その翌日からビルとボブは自分たちが救うべきもうひとりのアルコホリックを求めてアクロンの町の精神病院へ出かけ、3人目のビル・Dという元弁護士のアルコホリックが彼らの仲間に加わった。このささやかなグループははじめオックスフォード・グループの中に誕生したがやがてアルコホリックだけのメンバーがドクター・ボブとその妻アンを中心にミーティングをもつようになり、やがてニューヨークにも同種のグループがビルとロイスを中心に形成された。

重要なお知らせ

第3日曜日(合同例会断酒表彰)変更について

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魂の家族を求めて―私のセルフヘルプ・グループ論
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2. ウィリアム・ウィルソンからビル・Wへ ?ひとつの回復物語
もう少しビルとその仲間たちのことを書く。12ステップを使ったセルフヘルプ・グループと、それを通じての回復について知るには、この人たちの理解が必要だと思うからである。彼らの破綻と回復の物語は、いま現在も繰り返されている数多くのアディクト(嗜癖者)たちの「回復の物語」のアイソモルフィズム(類型結晶)であり、20世紀という時代のオデッセイ放浪譚である。現代では英雄叙事詩の主人公は嗜癖者の姿をとるのかもしれない。
 ビルがさかんに飲み、入院を繰り返したのは1920年代初頭から1934年の間であるが、この時代のアメリカは禁酒法(1920?1933)をしき、1929年には大恐慌があった。そしてウィリアム(ビル)・ウィルソンは株屋であり、大恐慌の直前にはウォール街で少しは名前の知られたブローカーの一人だった。この年代の直前と直後、アメリカは第一次および第二次の世界大戦に加わり、後者では主役を演じた。ビルは1918年、士官として従軍しており、株式ブローカー、ビル・ウィルソンが、AAのビル・Wとして変身を完了するのは第二次大戦の最中である。こうしてみるとビル。Wは20世紀のアメリカというものが結晶したような人物である。
 20世紀はアメリカという国にハイライトの当てられた時代であったが、ルーズベェルトやケネディがその光の部分を担っていたとすれば、光を際立たせる影の部分にビルとその仲間たちがいる。そして、われわれが今世紀のアメリカから受け取るべき最大の贈り物は、この影の中から生まれてきた。
* ビル・ウィルソンの破綻
ビル・ウィルソンはアメリカ東部ヴァーモント州のしっかりした家庭で生まれた。父は石材掘削技師、母は整骨医で3歳年下の妹がいる。父親は酒飲みのほがらかな人、母親は感情をおもてに出さない厳格な人で、このやや不似合いな夫婦はビルが11歳のとき離婚した。母親は、整骨医として名を成すほどに仕事に精を出したので、ビルと妹は母方の実家に預けられ、祖父母にかわいがられて育った。
 幼い頃から機会いじりが好きで、学校もノーウィッチ大学という士官学校で工科系の勉強をした。しかし兵役や従軍の義務を終えた24歳の時に軍隊を辞め、ウォール街の証券会社の調査員になり、夜学でブルックリン法律学校に通っていた。母方の祖父の強い勧めであったといわれている。この間、18歳頃からニューヨークの医師の長女でビルより4歳年長のロイスと交際し、1918年、ヨーロッパへ出征する直前に結婚式をあげた。ロイスは3度妊娠したが、いずれも子宮外妊娠で2人は子供を断念しなければならなかった。
 ビルがはじめて酒を口にしたのは20歳を過ぎてからである。彼の飲み方にははじめから問題があったようだ。飲みだすと爽快で多弁になり、つい飲みすぎることが多かった。彼の父はアルコホリックではなかったが、父方の祖父は明らかなアルコホリックであったという。母方の実家は教育家ぞろいの堅い家柄で、酒をまったく飲まなかった。ビルの初飲が遅いのもそのためである。
 ビルの酒の飲み方を11歳のときの両親の離婚に関連づける人もいる。いまと違って、当時のアメリカでは離婚は珍しく、多感なビルにとっては友人たちとの関係その他でこたえただろうと言うのであるたしかに明るくて率直で機械いじりの好きな父親をビルは好いてもいたし、頼りにしていた。「その父と急に会えなくなったことはことえた」とビル自身が言っている。
 母親との関係が重要だと言う人もいる。きわめて意思の強い母親でりっぱな人だったが、ビルはこの母親にくつろぎや暖かさを感じたことがなかった。おまけに11際以後は実家に預けられたままだったから、祖父母には良くしてもらったものの、ビルと妹は置き去りにされた感じをもち続けたという。もちろん、ウォール街での激しい勝負の世界も彼のアルコール問題を悪化させただろう。
 1919年に株取引の仕事についてから、ビルは読みの鋭い証券アナリストとしてしだいに注目されるようになっていたが、1929年の大恐慌がすべての成功を吹き飛ばした。立ち直りのチャンスと見えた場面も何度かあったが、そのつど酒に足をとられ、ウォール街での信用も維持できなくなってきた。以上はビル・ウィルソンの略歴である。以下はアルコホリック、ビル・Wの回生の物語である。
* 治癒不能の宣告
 ビルの入院は1933年秋、1934年夏、最後が1934年12月11日からの1週間で、いずれもニューヨーク市のタウンズ病院であった。この病院は1920年代からアルコホリズムの治療で有名で、当時はシルクワース(Silkworth,D.W.)という神経内科医が医長を務めていた。シルクワースはアルコホリズムのアレルギー説というわれる学説で知られた人である。アルコホリズムの発生を考えるには意志薄弱というような個人の人格的欠陥といった視点からではなく、アルコールに対するアレルギー類似の体質的基盤をも考慮すべきであるというのがシルクワースの考え方であり、現在さかんなアルコホリズムの素因研究の先駆者の一人である。
 第1回目の入院でビルはアレルギー説をはじめて知り、自分の病気の原因がわかったことに喜びながら自信をもって退院した。しかし1ヵ月あまりで飲みはじめ、激しい被害妄想と自殺企図のために2度目の入院となった。この時シルクワースは、ビルの妻ロイスに、「彼の病気は精神的にも身体的にも取り返しのつかないところまで進んでいる。いずれ、狂うか死ぬかするだろう。そうしたくないなら閉じ込めてでもおくほかない」と治癒不能の宣告をした。ビルはこれによって恐怖のとりことなって退院するが、数ヵ月後、1934年11月11日に誘惑に負け、ジンのことしか考えられない連続飲酒の状態に入った。
 そんな11月のある日、学校時代からの友人、エビィ・Tから電話があった。エビィは東部の名家の出だが、酒で身を持ちくずしているとビルは聞いていた。しかし訪ねてきたエビィは以前とは全く違う人物になっていた。ジンに手を出さないエビィに「一体どうしたんだ、名にがお前の中に入りこんだんだい?」とビルは聞いた。エビィは「宗教だよ」と答えた。
* エビィとローランド
エビィの兄は東部のある町の市長を務めていた。エビィは自分の酒が兄に迷惑をかけるのを恐れて町を離れ、放浪した後、廃屋となった生家に戻り、一人でペンキ塗りをする毎日を送っていた。彼は酩酊罪(アメリカでは公衆酩酊罪が1971年まで続き、悪質な酩酊者は拘留され裁判にかけられた)で2度捕まっており、3度目には6ヵ月の懲役に服することになっていた。そうした彼をオックスフォードグループ(1938年、同名の英国の大学から抗議を受け、モラル・リアーマメント:MRAと改称)という宗教団体の人たちが訪れ、いっしょにペンキ塗りをしてくれた。その中にエビィに強い印象を与えた人物、ローランド・Hがいた。
 彼はロード・アイランドの名門の出で、一族は鉱山の所有者であり、彼自身、ある化学工業会社の社長を務めたことがあった。その酒歴は猛烈で、全国を放浪してまわったが酒から離れられず、スイスに渡って、カール・ユングのもとで治療を受けたが、帰国するとまた飲みはじめた。ふたたび訪れたローランドに対し、ユングは治療を断り、彼の嗜癖を治す道は「霊の覚醒」だけだと言った。ローランドは、「神ならもう信じています」と抗弁したが、それに対してユングは信仰だけじゃだめだ、身にしみるような宗教的な体験が必要だ、と言って宗教運動へ参加してみるようにと勧めた。ローランドはアメリカに戻ると、オックスフォード・グループの素朴な教義にひかれ、この団体に身を投じた。そして飲む必要がなくなった。
 ローランドたちの助けを受けてエビィのペンキ塗りの仕事ははかどり、やがて終わった。仕事がなくなると、エビィはまた飲みはじめた。そしてある晩、鳩が屋根に止まっているのを見てライフルで撃った。せっかく縫ったペンキが汚れると思ったのである。近所の人が当局に苦情を言い、これでまたエビィは法廷に立たされることになった。この時、ローランド・Hがすばやく介入してエビィを救った。彼は判事にエビィを預からせてほしいと申し入れ、次t買うに連れ帰ったのである。以来エビィはオックスフォード・グループに身を寄せ、ニューヨーク市のカルバリィ教会で宿無しの人たちの世話をしていた。その時、ビルの惨めな状態を噂で来て訪ねてきたというわけである。
 ビルはエビィの変身にショックを受けた。神とか教会とかから離れて久しかったので、そちらの話は耳を素通りしたが、飲まないですんでいるエビィがうらやましくてならなかった。数日後、ビルは酒をひっかけながらエビィの働いていたカルバリィ教会に出かけ、説教に参加したりしはじめた。しかし、酒は止まらず惨めさは増すばかりだった。12月11日、飲みはじめてちょうど1ヵ月目に、ビルは無性にシルクワース医師に会いたくなり、妻に書き置きして一人で入院してしまった。
* 霊的な体験
1週間後の1934年12月18日がビルの最後の退院になった。治療が終了したのではない。治療を続ける金が無かったのである。自宅に戻った時の彼は絶望と抑うつの極にあった。その数日後、エビィが訪ねて来た日に起こったことを、ビルの伝記にそってたどってみよう。
「彼らはふたたび台所のテーブルに向かい合って話した。エビィの訪問でビルの抑うつは多少治まったが、彼が帰るとふたたび不快メランコリーにすべり落ちていった。終始一貫自分を愛し続けてくれた妻のロイスをひどい目にあわせていることが悲しかった。彼女との素晴らしかった日々が思い出された。しかし、それもおしまいだ。自分は間もなく死ぬか狂うかするだろう。この絶望の中でビルはすすり泣いた。『何でもします、はい何でも!』彼はこの時、完全に屈服し、自分の身を預けたのだ。
 駈れは泣きながら乞うた。『神様、おられるなら姿をお示しください。』その直後に起こったことは衝撃的だった。『突然部屋が言いようもない白い光に燃え上がった。形容を絶する恍惚の感じに包まれた。……それから、心の目の中に山が見えた。私はその頂点に立っていて、そこにはすさまじい風が吹きさんでいた。空気の風でなく魂の風だった。偉大な透明な力で私の中を吹き抜けて行った。その時、“お前は自由だ”という考えが燃え立つように沸いてきた。どのくらいの時間こんなことをして過ごしたのか覚えていないが、そのうち段々光や恍惚が遠のいて部屋の壁が目に入るようになってきた』
 この日以来ビル・Wは神の存在を身近に感じるようになり、飲まなくなった。39歳の誕生日が過ぎたばかりの時だった」
ビルは自分の体験がアルコール幻覚のように思えたので、すぐにシルクワースを呼び出して意見を聞いた。「先生、これは現実でしょうか?私はまだ正気ですか?」。シルクワースは次のように答えたいう。「私にはわからないが、君はそれにすがりついた方がいい。何であれ、ほんの数時間前までの君よりいいさ」
 その後の数ヵ月、ビルはオックスフォード・グループでエビィたちの仕事を手伝いながら、何かものたりないものを感じていた。アルコホリックに会いたかった。その仲間に自分の体験を語りたかった。
 そんなある日、シルクワースは「説教ばかりしていないで、君の経験をほけのアルコホリックにはなしてあげたらどうかね」と言った。「まず次から次へ伝えていって、それからオックスフォード・グループで掴んだものを与えていったらいいだろう」
 ビルはすぐにもそうしたかったが、救済の旅に出る経済的なゆとりはまったくなかった。そうした時、ビルの回復を信じた一人の友人が仕事をまわしてくれたために出張が必要になり、この旅がビルの運命を決定的に変えた。
* 天の恵み
1935年4月、ビルはオハイオ州のアクロン市で、ある会社の乗っ取りに奔走していた。株の取得は順調にすすみ新会社の設立は確実というところまできた。ビルは新会社の経営陣の一画を占めるはずだった。久しぶりにビルは仕事で燃えた。これでロイスを働かせないですむようになると思った。しかし株主総会では会社側の防衛が功を奏して、ビルたちが敗けた。ビルたちの数週間の努力は水の泡に帰した。訴訟問題になった。ニューヨークから乗りこんだ仲間たちはビルを渉外担当としてアクロンに残して引きあげてしまった。ビルは失意のまま見知らぬ町でひとり週末を過ごすはめに陥った。午後5時、ホテルのバーからの賑わいが彼を誘惑し、“ホンの一杯”という考えが頭の一隅を占めるようになった。その時、彼はシルクワース医師の勧めを思い出した。
 彼は意を決し、ホテルに備えつけの数十に及ぶ教会の住所録の中から1つを選んで電話した。「私はアルコホリックです。同じ問題で困っている人と話したいのでこの町のアルコホリックを紹介してほしい」と言ったのである。当時のアメリカで、ひとかどの人物と思われていた人がアルコホリックであったとあばかれることは社会的自殺を意味していたことを理解しないと、ビルの電話の切迫性が伝わってこないかもしれない。幸いにも電話に出た牧師はオックスフォード・グループに属する人だったが、アルコホリックの知り合いということになると、さすがにこころあたりがなかった。その代わり彼は10人の友人の名前と電話番号をビルにくれた。
 ビルは次々に電話したが、9番目までは空振りに終わった。そして10番目の人の名前を見た時、すべてあきらめようと思った。その人の姓は現に彼が乗っ取りを狙っている会社のオーナーと同じだったのである。あるいは縁者かもしれない。しかしビルに選択のゆとりはなかった。ヘンリエッタ・セイバリングという女性が、その運命の電話の相手であった。以外にも彼女はビルの電話を受けて、「まぁ、なんてラッキーなんでしょう。これこそ“天の恵み”だわ」と叫んだのである。彼女はビルがかかわっていた会社の関係者ではなかったが、土地の名門の一族で、当時ひとりの友人のことで頭を痛めていた。
 その友人はアン・スミスといって土地の外科医の妻であったが、夫のアルコホリズムのことで悩み抜いていたのである。その夫、ドクター・ロバート・ハルブロックス・スミス(ボブ)は当時55歳、かつては有能な医師として、この町の人びとの尊敬を集めていたが、その頃は避けで荒みきっていた。ビッグ・ブック(AAの聖典である『Alcoholics Anonymous』1939年初版?のこと)の第11章に「家庭は崩壊寸前で、妻は病気になり、子供たちは気ちがいのようになっていた」ある医師のことが書かれているが、それはボブのことである。
 この2人の出会いから、1935年6月10日にボブが酒を止めたときまでのことは、前章に書いた。その翌日からビルとボブは自分たちが救うべきもうひとりのアルコホリックを求めてアクロンの町の精神病院へ出かけ、3人目のビル・Dという元弁護士のアルコホリックが彼らの仲間に加わった。このささやかなグループははじめオックスフォード・グループの中に誕生したがやがてアルコホリックだけのメンバーがドクター・ボブとその妻アンを中心にミーティングをもつようになり、やがてニューヨークにも同種のグループがビルとロイスを中心に形成された。