魂の家族を求めて第3章

この文章は以下の書籍から許可を得て転載しています。

魂の家族を求めて―私のセルフヘルプ・グループ論
斎藤 学
小学館
売り上げランキング: 80,384

* ビルの抑うつと12の知恵 ?グループ(全体)はどのように生き残ったか

12ステップを用いているセルフヘルプ・グループを理解するためには、「アノニミティのルール」に対するメンバーたちの身長な態度に注目しなければならない。これはビルやボブたち、オールドタイマーズの体験した錯誤と混乱、そこから生じたグループ崩壊の危機から生じた知恵(伝統)である。ビルは断酒後、ひどい抑うつ状態に悩みながら、分裂の危機に耐えAAの一体性を維持することに寄与した。ビルのこの体験はセルフヘルプ・グループを創始する者すべてが一度は通過しなければならない道のように思われる。

 これらの試練の嵐がすぎた頃、ビルはチューリッヒのカール・ユングに礼状を書いた。ビルは「AAの基盤」はユングの診察室にあると考えていたからである。こうしてすべてを終えてビルは死んだ。その経過をできるだけ簡潔かつ具体的に述べてみよう。

* 12ステップ成立のころ

ビルが飲まなくなったのは1935年、死んだのは1971年であるが、このうち最初の10年は比較的元気だった。とくに最初の数年、ビルとロイスは極貧の中で彼らよりももっと行きづまったアルコホリックとの出会いをつづけ、彼らを援助しながら、比較的元気にすごした。ビル夫婦が居候していたロイスの実家(ロイスの実父であるバーナム医師は1936まで存命していた)の居間の暖炉の前には、素面のアル中や酔っぱらったアル中たちがいつもとぐろを巻いていた。中にはビル夫婦の好意に甘えて、この言えの居候になった人もいたが、その多くはビルたちの好意を裏切った。元弁護士のビル・Dは断酒してからもギャンブル癖が止まらず、ビルとロイスの旅行中に彼らの衣類を売り払ったうえ、彼らの家でガス自殺をしてしまった。

 ビル自信もこの時期比較的元気だったとはいえ、しょっちゅう寝込んでいた。彼はもともと心気症気味で、彼自身自分を自嘲して「想像性胃潰瘍」感じゃと呼んでいたくらいである。AAの12ステップにもこうした寝たり起きたりの生活の中から生まれている。ビルとその仲間たちは1938年の3月頃から彼らの回復の物語を本にする構想を立てはじめたが、本をまとめるにあたって、当時のミーティングで使っていた6ステップを文章にする必要に迫られた。例によって体調を崩していたビルは噛みきれを持って2階のベッドに横たわったが、30分もしないうちに現在の12ステップの原型にあたるものをまとめ、階下にいた居候たちに見せにきたという。この当時企画していた本は1939年に『名無しのアル中たち(アルコホリックス・アノニマス)』というタイトルで出版され、彼らの会もこの名称を使うことが正式に決められた。

 ロイスには、愛する夫がどうにも理解できなくなることがあって、これが彼女を一生苦しめた。ビルは家にいるとグズグズ過ごすにもかかわらず、AAの企画に飛び回ったり、アルコホリックに囲まれて自分の話をしていると実に生き生きしていた。どんな集会でもビルは呼びモノの話し手だったし、事実、彼の話はいつも面白く、説得力があり、聴衆のっころを打った。そして会場で人々の相談にのり、2時間でも3時間でも悩む人々につきあった。こんなに精力的なビルが家で一人でいると別人のように無能な病人になってしまうのだ。

 酒が止まったとはいえ、他のアルコホリックの相談にかまけて仕事はせず、出版した本は全く売れず生活は極貧の中にあった。夫の酒の問題さえなくなれば、と思っていたロイスには意外な成りゆきに違いなかった。しかし、このことで最も悩んでいたのはビル自身であった。彼なりに努力もし、AAから離れることを決意してワイヤー・ロープのセールスマンの仕事についたりもするのだが、結局長続きしなかった。きらいなことはどうにも手につかない、といのがビルだった。

* 分裂の危機

とはいえ、ビルの一生を知っている者からすると、当時のビルの悩みはまだまだ軽かったといえる。真の試練は『ビッグ・ブック』が売れ出し、AAとビルの名声が急激に高まる1941年春になってやってきた。その年の3月1日、当時全米に圧倒的な影響力をもっていたサタディ・イブニング・ポストがAAの活動を紹介すると、助けを求めるアルコホリックとその家族がビルたちのもとに殺到するようになり、『ビッグ・ブック』は飛ぶように売れて版を重ねるようになった。これがビルとドクター・ボブを苦境におとしいれたというと逆説的に聞こえるかもしれないが、事実はそうだった。

 それは以前、『ビッグ・ブック』を世に出す時、ビルたちは後述するハンクの主張を受け入れて自分たち自身の出版社をつくった。そこからの収益でAAを運営したり出資者であるビルたちの生活のたしにしようとしたわけである。本の売れない数年、ビルたちが経済的にゆき詰まったのもそのためなのだが、結局は彼らのもくろみどおりになったわけである。しかし、それが他のAAのメンバーたちの嫉妬と疑惑を買った。彼らの中にはビルとドクター・ボブがAAによる名声と富(本の印税)を独占していると思い込んだ者もいた仲間とともにあるつもりでいたビルとボブには想像もできなかったような中傷と不信のうずが彼らをとり巻いた。クリーブランドのAAはビルとボブを査問にかけた。こうした疑惑はビルが自分の経済生活のすべてを公開することで沈静したのだが、この苦しい経験からビルやボブが学んだものは大きかった。『AA小史』(Alcoholics Anonymous’ 付録)はこれを次のように表現している。

「1941年の暮れ、AAは8000のメンバーを数えた。伸長のプロセスは快調になった。AAは全国的になった。われわれの共同体は、危険と興奮を伴う成長期に入ったのである。さしあたり直面する試練はこれである。すなわち、これまで迷える人たちであったアルコホリックをそんなにたくさん集めて、うまくいっしょにやることができるのか?メンバーであること、リーダーシップ、お金のことで争いは起こらないか? 権力と名声をえるための抗争は起こらないか? AAを分裂させる派閥はできないか? まもなくAAはすべてのグループにおいて、各方面からこれらの問題に襲われることになる。しかし当初はバラバラになりそうなこの恐ろしい経験から、AAの人たちはいっしょにいるか、さもなければバラバラになって死ぬか、どちらかしかないという確信をえたのであった。われわれは仲間を一つにするか、消えてなくなるかのどちらかである。われわれは個々のアルコホリックが、それによって生きる原理を発見したのであるから、今度はAAグループおよびAA全体として生き残り、そして役目を果たすための原理を発展させなければならない」

* ハンクとマーティ・マン

 以上のようなわけでソブライアティ(素面)を達成してからのビルにも数々の危機があったわけだが、その中でもとりわけ彼を悩ませた人物はハンク・P・とマーティ・マンであった。ハンク・Pはアクロンからニューヨークへもどったばかりのビルが出会ったアルコホリックの一人であり、ビルによって断酒に導かれた人である。かつては大きな石油会社の幹部をつとめたこともある有能な人物で、初期のAAの運営につくした彼の功績は大きい。『ビッグ・ブック』の刊行を夢想したのはビルだが、出版という事業を軌道に乗せたのはハンクだった。1939年、ビルたちの抵当に入っていたブルックリンの家を追い出されるのだが、この時はニュージャージーにいたハンクとその妻がビルとロイスを援助した。ビルにないものを豊富にそなえ、ビルが最も頼りにしていた仲間だった。そのハンクがスリップした。最飲酒はすでに1939年からはじまっていたようで、スリップが隠せない程度になるにしたがって、以外にもハンクにはビルに対する批判と怒りの感情が溢れていたことがはっきりしてきた。はじめはビルの夢想を危惧し、批判していたのだが、そのうち嘲笑するようになり、ついには恨むようになった。

 1940年にはAAの運営にも参加しなくなり、出版事業からも手をひいてしまうのだが、この時期はちょうどAAが脚光を浴びはじめ、本が売れ出した時期の直前でもあったために、ハンクはビルにだまされたという恨みの感情をつのらせ、その感情をあちこちで伝えた。既述したようなビルに対する不信はこうしたハンクの言動と無関係ではない。結局ハンクは二度とAAにもどることなく、1954年に飲酒中に死んだ。

 ハンクの脱落とそれに伴う感情のもつれは確かにビルを痛めつけたが、よったハンクの理不尽な攻撃にビル自身がたじろぐということはなかった。むしろマーティ・マンのアノニミティ破りのほうが、ビルを揺さぶったといえるだろう。1939年、ビルとロイスがブルックリンから引っ越す直前のAAミーティングに36歳の美しい女性、マーティ・マンが参加した。彼女は当時、精神科医ティーボー(Tiebout,H.M.:精神分析医でAAの発足の初期から、その支援者であった)のいた病院に入院中で、彼のつよい進めで、半信半疑のままやってきたのである。このミーティングでマーティはビルにつよくひかれ、AAのステップを踏んでソブライアティ(しらふで生きること)を達成した。そして「二重のスティグマ(烙印)」に苦しむ女性アルコホリックを援助することを模索しはじめた。

 ソブライアティ4年目の1943年、マーティはジュリネック(Jelineck,E.M.:医師、生理学者。アルコール依存症を疾患として位置づけることに最も大きな貢献をした)らの主催するイェール大学アルコール研修に参加し、アルコホリズムのスティグマを軽減するための広報、教育に生きることを決意して、翌年、National Committee for Education on Alcoholism(後にNational Councile on Alcoholism「NCA」と改名)という団体を組織した。ビルとボブはこの事業を熱心に支持し、マーティがこの団体の創立者として、二人の名前を用いることにも疑問をもたなかった。しかし、まもなく事態は深刻なことになってきた。まずNCEAの運営のための寄付衣類がビルやボブの名前入りでAAメンバーに送られてくるようになった。まずNCEAがマスコミの取材対象になると、マーティ・マンのフル・ネームと顔写真が何度も新聞に載るようになった。その上でマーティは自分がAAメンバーであることを公言したから、明瞭な「アノニミティ破り」をおかしたわけである。

 とくに1946年のタイムの記事はAAメンバーの間に深刻な動揺をひき起こした。メンバーからの疑問に対し、ビルは初め、教育の重要性を説いてマーティの行為を「特別な例外」と弁護していたのだが、他のAAメンバーからも「教育」ないし「広報」のためにアノニミティの禁則を特別に解除してほしいという依頼がひき続くようになって、みずからの過ちを認めざるをえなくなった。1947年以後、AAとNCEA(後のNCA)は明瞭に区別されるようになり、マーティはAAメンバーであることを公衆の前で明らかにすることをしなくなった。この事件以後、ビルはアノニミティを何よりも重視するようになり、自分自身にも厳格になった。事実、1954年、イェール大学がビルに名誉法学博士の称号を授与しようとした時、彼はきっぱりとこれを断っている。

* 12伝統

1946年頃から、ビルはこうした経験の蓄積をまとめるようになり、「われわれの将来を確かにするための12項」としてAAの会報であるグレープ・バインに載せ、各地に旅行しては地域のAAメンバーにこれを説きつづけた。どこへ行ってもこの話をするので聴衆が閉口したという話が伝わっている。1950年、クリーブランド市に3000人の参加者が集まって第一回AA国際コンベンションが開かれた時、ビルは「われわれの?12項」を簡略化した「12伝統」をAAのドクトリンとして採用することを求め、受け入れられた。12伝統には「われわれのリーダーは、奉仕はしても絶対に支配しないこと」、「会費も月謝もないこと」、「われわれの費用は、自分たちの自発的な献金によってまかなわれるべきこと」、「組織のようなものは、われわれのサービス・センターにおいてさえ、あるべきではないこと」、「われわれは無名であるべきであり、各個人よりもAAの原理が優先すべきであること」などがうたわれている。AAのメンバーたちは「飲まないで生きる」ことの必要性だけを追求しているうちに、有能なリーダーシップ、能率、組織力で成り立つわれわれの社会に対する、ラディカルなアンチ・テーゼに到達してしまったわけだ。

 ドクター・ボブもこのコンベンションでスピーチした。聴衆はみなボブがまもなく死ぬことを知っていたという。最後のスピーチを終えてアクロンの町へ帰ってすぐボブことロバート・ハルブロック・スミスは永眠し、前年に亡くなった妻アンのかたわらに葬られた。

* 抑うつの苦しみ

 既述したように、ビルには彼自身が自嘲的に「想像性胃潰瘍」と呼んでいたような心気傾向があり、ときどき考えこんで気力が萎えるといった気質の持ち主だったのだが、AA発足当初の数年は極貧のうちに他人の面倒をみているような気ぜわしい状況にあって、こうした気質もめだたなかった。1941年、ビルとロイスの夫婦は結婚23年目にしてはじめてニューヨーク郊外に彼らの持ち家を得ることができたのだが、このときも先に述べたハンクとの確執や一部メンバーの不信に出会ってオチオチしていられなかった。ビルにとって地獄の苦しみが訪れたのは、こうした問題も片づき、AAの運営にもゆとりの出てきた1944年はじめ頃からである。

 その前年1943年の10月からビルとロイスは3ヵ月にわたるアメリカ巡回の旅に出て、各地で大歓迎を受けた。ビルの話は聴衆を魅了し、その後のAAを支える多くの友人を得た旅だった。このすばらしい体験が終わってくつろげる自宅にもどった翌朝からビルは朝起きるのにも全力をふりしぼらなければならないようなきびしい抑うつ状態におちいった。この抑うつは1955年まで11年つづいたが、とくに初めの数年が激烈で、しばしば自殺への誘惑にかられた。当時のAAオフィスの秘書はフラフラと事務所にやってきては頭をかかえて支持も出せないでいるビルの姿を覚えている。

 ビルはこの持病を理解しようとしてしきりに文献をあさり、種々の薬物療法を受け、精神療法も受療から人のこころに関するさまざまのことを学んだが、効果ははかばかしくなかった。ついには絶望の中から「いったい、この苦しみは何なんだ?どうすればこの苦しみからメリットをひきだせるんだ?」と考えるようになった。回答は、かねてからビルがこころを寄せていたイタリアの放浪の神学者、聖フランシスは教えていた。この心境をつかむようになってから、抑うつは薄紙をはがすように軽くなってきた。ようやく抑うつと“和解”できるようになってきたのである。そして1955年、セントルイスでのAA20周年のコンベンションが終わってみると、抑うつはいつのまにやら去っていた。

 先に述べた12伝統はこうしたビルの抑うつの中から生まれ、これをAAメンバーの間に広める全米行脚の仕事も、この暗い日々の中で行われたわけである。

* ユングへの手紙

1961年、ビルはAAの発展に力を借してくれた人びとに感謝の手紙を書いたが、その筆頭にスイスの精神分析医、カール・ユング(Jung,C.)を選んだ。ビルの断酒を導いたのはエビィであるが、エビィはローランド・Hによって断酒に導かれ、そのローランドはユングによって回復の啓示を受けたからである。ビルの理解によればAAはユングの診察室から始まったのだ。戦術したようにローランドは1931年に、ユングの治療を受けてアメリカに戻り、すぐにスリップしてスイスに立ち戻ったところユングに治療を拒否されていた。以下はビルの手紙の一節である。

「その時あなたは彼に、もはや医術や精神医療ではどうにもならない、とおっしゃったそうです。あなたのこの率直で謙虚なことばが、私たちの会(AA)の基礎となったと私は確信しております。彼(ローランド)が、ほかに方法はないのですか?と尋ねると、霊的(spiritual)あるいは宗教的な経験をすれば、つまり、“真の転換”を経験すれば回復可能かもしれない、とあなたはおっしゃったそうです。その後この男はアメリカに帰り1930年に流行っていた福音主義運動の1つであるオックスフォード・グループに参加して飲酒を止めました」

 ユングは次のような返事(1961年6月30日、チューリヒ発)を書いてビルを驚喜させた。

「W様、お手紙たいへんうれしく拝見しました。その後ローランド・H氏からは何のご連絡もなく、どうなったものかと気にかかっておりました。・・・・・・彼のアルコールへの渇望は、ある霊的な渇きの低い水準の表現でした。その渇きとはわれわれの存在の一体性(sholeness)に対する渇きであり、中世風の言い方をすれば、神との一体化ということであったと思います。われわれの時代にこうした洞察を言葉にだして誤解されないで済むなどということがあり得るでしょうか?そのために私はH氏に伝える言葉を選ぶのに苦労し、あのように言ったのです・・・・・・」

 ビルはふたたび感謝の手紙を書いたが、ユングからの返事はなく、2ヵ月後にユングの死が伝わってきた。ビルのユングへの感謝の気持ちは25年にもわたってあたためられ、それを伝えるのにかろうじて間にあったわけである。

 ビルが死んだのは1971年11月24日、ビルとロイスの53回目の結婚記念日の当日だった。その日ビルはマイアミへ飛んでいた。彼の弱った心臓をマイアミ心臓研究所の最新技術にゆだねようとロイスらが考えたからです。機内でのビルはしっかりしていたが、マイアミについてロイスたちが自分の部屋にひきとってから深夜近くになって死んだ。ロイスが「おやすみ」を言ったとき、ビルはくつろいでやすらかそうだったという。

AAの12の伝統

1. 第一にすべきは共同の善である。個人の回復はAAの一体性にかかっている。
2. われわれのグループの目的のための最終権威は唯一つ、われわれのグループの良識の中にご自身を現される、愛なる神である。われわれのリーダーは、奉仕を委されたしもべに過ぎず、彼らは決して支配しない。
3. AAのメンバーになるために要求されることは、酒をやめたいという願望だけである。
4. 各グループは自律でなければならない。ただし、他のグループまたはAA全体に影響を及ぼす事柄においては、この限りではない。
5. 各グループの目的は唯一つ、まだ苦しんでいるアルコール中毒者にメッセージを運ぶことである。
6. AAグループはいかなる関係ある施設にも、外部の企業に対しても、裏書きや融通やAAの名前を貸すことをしてはならない。金銭や所有権や名声の問題が、われわれを大事な目的からそらさせる恐れがあるからである。
7. すべてのAAグループは外部からの寄付を自体して、自立しなければならない。
8. AAはどこまでも非職業的でなければならない。しかし、サービス・センターのようなところでは専従の職員をおくことができる。
9. そういうわけで、AAは決して組織化されてはならない。ただし、奉仕される人々に対し直接の責任をとるサービス理事会または委員会をつくることはできる。
10. アルコーリクス・アノニマスは、外部の問題に対しては意見を持たない。したがってAAの名は、公けの論争において、ひきあいに出されるべきではない。
11. われわれの広報活動は奨励することよりも、ひきつける魅力に基づく。新聞、電波、映画の分野で、われわれはいつも個人名を伏せるべきである。
12. 無名であることはわれわれの伝統全体の霊的基礎である。それは各個人よりもAAの原理が優先すべきことを、いつもわれわれに思い起こさせるものである。

重要なお知らせ

第3日曜日(合同例会断酒表彰)変更について

この文章は以下の書籍から許可を得て転載しています。

魂の家族を求めて―私のセルフヘルプ・グループ論
posted with amazlet on 06.10.12

斎藤 学 小学館 売り上げランキング: 80,384
Amazon.co.jp で詳細を見る

* ビルの抑うつと12の知恵 ?グループ(全体)はどのように生き残ったか
12ステップを用いているセルフヘルプ・グループを理解するためには、「アノニミティのルール」に対するメンバーたちの身長な態度に注目しなければならない。これはビルやボブたち、オールドタイマーズの体験した錯誤と混乱、そこから生じたグループ崩壊の危機から生じた知恵(伝統)である。ビルは断酒後、ひどい抑うつ状態に悩みながら、分裂の危機に耐えAAの一体性を維持することに寄与した。ビルのこの体験はセルフヘルプ・グループを創始する者すべてが一度は通過しなければならない道のように思われる。
 これらの試練の嵐がすぎた頃、ビルはチューリッヒのカール・ユングに礼状を書いた。ビルは「AAの基盤」はユングの診察室にあると考えていたからである。こうしてすべてを終えてビルは死んだ。その経過をできるだけ簡潔かつ具体的に述べてみよう。
* 12ステップ成立のころ
ビルが飲まなくなったのは1935年、死んだのは1971年であるが、このうち最初の10年は比較的元気だった。とくに最初の数年、ビルとロイスは極貧の中で彼らよりももっと行きづまったアルコホリックとの出会いをつづけ、彼らを援助しながら、比較的元気にすごした。ビル夫婦が居候していたロイスの実家(ロイスの実父であるバーナム医師は1936まで存命していた)の居間の暖炉の前には、素面のアル中や酔っぱらったアル中たちがいつもとぐろを巻いていた。中にはビル夫婦の好意に甘えて、この言えの居候になった人もいたが、その多くはビルたちの好意を裏切った。元弁護士のビル・Dは断酒してからもギャンブル癖が止まらず、ビルとロイスの旅行中に彼らの衣類を売り払ったうえ、彼らの家でガス自殺をしてしまった。
 ビル自信もこの時期比較的元気だったとはいえ、しょっちゅう寝込んでいた。彼はもともと心気症気味で、彼自身自分を自嘲して「想像性胃潰瘍」感じゃと呼んでいたくらいである。AAの12ステップにもこうした寝たり起きたりの生活の中から生まれている。ビルとその仲間たちは1938年の3月頃から彼らの回復の物語を本にする構想を立てはじめたが、本をまとめるにあたって、当時のミーティングで使っていた6ステップを文章にする必要に迫られた。例によって体調を崩していたビルは噛みきれを持って2階のベッドに横たわったが、30分もしないうちに現在の12ステップの原型にあたるものをまとめ、階下にいた居候たちに見せにきたという。この当時企画していた本は1939年に『名無しのアル中たち(アルコホリックス・アノニマス)』というタイトルで出版され、彼らの会もこの名称を使うことが正式に決められた。
 ロイスには、愛する夫がどうにも理解できなくなることがあって、これが彼女を一生苦しめた。ビルは家にいるとグズグズ過ごすにもかかわらず、AAの企画に飛び回ったり、アルコホリックに囲まれて自分の話をしていると実に生き生きしていた。どんな集会でもビルは呼びモノの話し手だったし、事実、彼の話はいつも面白く、説得力があり、聴衆のっころを打った。そして会場で人々の相談にのり、2時間でも3時間でも悩む人々につきあった。こんなに精力的なビルが家で一人でいると別人のように無能な病人になってしまうのだ。
 酒が止まったとはいえ、他のアルコホリックの相談にかまけて仕事はせず、出版した本は全く売れず生活は極貧の中にあった。夫の酒の問題さえなくなれば、と思っていたロイスには意外な成りゆきに違いなかった。しかし、このことで最も悩んでいたのはビル自身であった。彼なりに努力もし、AAから離れることを決意してワイヤー・ロープのセールスマンの仕事についたりもするのだが、結局長続きしなかった。きらいなことはどうにも手につかない、といのがビルだった。
* 分裂の危機
とはいえ、ビルの一生を知っている者からすると、当時のビルの悩みはまだまだ軽かったといえる。真の試練は『ビッグ・ブック』が売れ出し、AAとビルの名声が急激に高まる1941年春になってやってきた。その年の3月1日、当時全米に圧倒的な影響力をもっていたサタディ・イブニング・ポストがAAの活動を紹介すると、助けを求めるアルコホリックとその家族がビルたちのもとに殺到するようになり、『ビッグ・ブック』は飛ぶように売れて版を重ねるようになった。これがビルとドクター・ボブを苦境におとしいれたというと逆説的に聞こえるかもしれないが、事実はそうだった。
 それは以前、『ビッグ・ブック』を世に出す時、ビルたちは後述するハンクの主張を受け入れて自分たち自身の出版社をつくった。そこからの収益でAAを運営したり出資者であるビルたちの生活のたしにしようとしたわけである。本の売れない数年、ビルたちが経済的にゆき詰まったのもそのためなのだが、結局は彼らのもくろみどおりになったわけである。しかし、それが他のAAのメンバーたちの嫉妬と疑惑を買った。彼らの中にはビルとドクター・ボブがAAによる名声と富(本の印税)を独占していると思い込んだ者もいた仲間とともにあるつもりでいたビルとボブには想像もできなかったような中傷と不信のうずが彼らをとり巻いた。クリーブランドのAAはビルとボブを査問にかけた。こうした疑惑はビルが自分の経済生活のすべてを公開することで沈静したのだが、この苦しい経験からビルやボブが学んだものは大きかった。『AA小史』(Alcoholics Anonymous’ 付録)はこれを次のように表現している。
「1941年の暮れ、AAは8000のメンバーを数えた。伸長のプロセスは快調になった。AAは全国的になった。われわれの共同体は、危険と興奮を伴う成長期に入ったのである。さしあたり直面する試練はこれである。すなわち、これまで迷える人たちであったアルコホリックをそんなにたくさん集めて、うまくいっしょにやることができるのか?メンバーであること、リーダーシップ、お金のことで争いは起こらないか? 権力と名声をえるための抗争は起こらないか? AAを分裂させる派閥はできないか? まもなくAAはすべてのグループにおいて、各方面からこれらの問題に襲われることになる。しかし当初はバラバラになりそうなこの恐ろしい経験から、AAの人たちはいっしょにいるか、さもなければバラバラになって死ぬか、どちらかしかないという確信をえたのであった。われわれは仲間を一つにするか、消えてなくなるかのどちらかである。われわれは個々のアルコホリックが、それによって生きる原理を発見したのであるから、今度はAAグループおよびAA全体として生き残り、そして役目を果たすための原理を発展させなければならない」
* ハンクとマーティ・マン
 以上のようなわけでソブライアティ(素面)を達成してからのビルにも数々の危機があったわけだが、その中でもとりわけ彼を悩ませた人物はハンク・P・とマーティ・マンであった。ハンク・Pはアクロンからニューヨークへもどったばかりのビルが出会ったアルコホリックの一人であり、ビルによって断酒に導かれた人である。かつては大きな石油会社の幹部をつとめたこともある有能な人物で、初期のAAの運営につくした彼の功績は大きい。『ビッグ・ブック』の刊行を夢想したのはビルだが、出版という事業を軌道に乗せたのはハンクだった。1939年、ビルたちの抵当に入っていたブルックリンの家を追い出されるのだが、この時はニュージャージーにいたハンクとその妻がビルとロイスを援助した。ビルにないものを豊富にそなえ、ビルが最も頼りにしていた仲間だった。そのハンクがスリップした。最飲酒はすでに1939年からはじまっていたようで、スリップが隠せない程度になるにしたがって、以外にもハンクにはビルに対する批判と怒りの感情が溢れていたことがはっきりしてきた。はじめはビルの夢想を危惧し、批判していたのだが、そのうち嘲笑するようになり、ついには恨むようになった。
 1940年にはAAの運営にも参加しなくなり、出版事業からも手をひいてしまうのだが、この時期はちょうどAAが脚光を浴びはじめ、本が売れ出した時期の直前でもあったために、ハンクはビルにだまされたという恨みの感情をつのらせ、その感情をあちこちで伝えた。既述したようなビルに対する不信はこうしたハンクの言動と無関係ではない。結局ハンクは二度とAAにもどることなく、1954年に飲酒中に死んだ。
 ハンクの脱落とそれに伴う感情のもつれは確かにビルを痛めつけたが、よったハンクの理不尽な攻撃にビル自身がたじろぐということはなかった。むしろマーティ・マンのアノニミティ破りのほうが、ビルを揺さぶったといえるだろう。1939年、ビルとロイスがブルックリンから引っ越す直前のAAミーティングに36歳の美しい女性、マーティ・マンが参加した。彼女は当時、精神科医ティーボー(Tiebout,H.M.:精神分析医でAAの発足の初期から、その支援者であった)のいた病院に入院中で、彼のつよい進めで、半信半疑のままやってきたのである。このミーティングでマーティはビルにつよくひかれ、AAのステップを踏んでソブライアティ(しらふで生きること)を達成した。そして「二重のスティグマ(烙印)」に苦しむ女性アルコホリックを援助することを模索しはじめた。
 ソブライアティ4年目の1943年、マーティはジュリネック(Jelineck,E.M.:医師、生理学者。アルコール依存症を疾患として位置づけることに最も大きな貢献をした)らの主催するイェール大学アルコール研修に参加し、アルコホリズムのスティグマを軽減するための広報、教育に生きることを決意して、翌年、National Committee for Education on Alcoholism(後にNational Councile on Alcoholism「NCA」と改名)という団体を組織した。ビルとボブはこの事業を熱心に支持し、マーティがこの団体の創立者として、二人の名前を用いることにも疑問をもたなかった。しかし、まもなく事態は深刻なことになってきた。まずNCEAの運営のための寄付衣類がビルやボブの名前入りでAAメンバーに送られてくるようになった。まずNCEAがマスコミの取材対象になると、マーティ・マンのフル・ネームと顔写真が何度も新聞に載るようになった。その上でマーティは自分がAAメンバーであることを公言したから、明瞭な「アノニミティ破り」をおかしたわけである。
 とくに1946年のタイムの記事はAAメンバーの間に深刻な動揺をひき起こした。メンバーからの疑問に対し、ビルは初め、教育の重要性を説いてマーティの行為を「特別な例外」と弁護していたのだが、他のAAメンバーからも「教育」ないし「広報」のためにアノニミティの禁則を特別に解除してほしいという依頼がひき続くようになって、みずからの過ちを認めざるをえなくなった。1947年以後、AAとNCEA(後のNCA)は明瞭に区別されるようになり、マーティはAAメンバーであることを公衆の前で明らかにすることをしなくなった。この事件以後、ビルはアノニミティを何よりも重視するようになり、自分自身にも厳格になった。事実、1954年、イェール大学がビルに名誉法学博士の称号を授与しようとした時、彼はきっぱりとこれを断っている。
* 12伝統
1946年頃から、ビルはこうした経験の蓄積をまとめるようになり、「われわれの将来を確かにするための12項」としてAAの会報であるグレープ・バインに載せ、各地に旅行しては地域のAAメンバーにこれを説きつづけた。どこへ行ってもこの話をするので聴衆が閉口したという話が伝わっている。1950年、クリーブランド市に3000人の参加者が集まって第一回AA国際コンベンションが開かれた時、ビルは「われわれの?12項」を簡略化した「12伝統」をAAのドクトリンとして採用することを求め、受け入れられた。12伝統には「われわれのリーダーは、奉仕はしても絶対に支配しないこと」、「会費も月謝もないこと」、「われわれの費用は、自分たちの自発的な献金によってまかなわれるべきこと」、「組織のようなものは、われわれのサービス・センターにおいてさえ、あるべきではないこと」、「われわれは無名であるべきであり、各個人よりもAAの原理が優先すべきであること」などがうたわれている。AAのメンバーたちは「飲まないで生きる」ことの必要性だけを追求しているうちに、有能なリーダーシップ、能率、組織力で成り立つわれわれの社会に対する、ラディカルなアンチ・テーゼに到達してしまったわけだ。
 ドクター・ボブもこのコンベンションでスピーチした。聴衆はみなボブがまもなく死ぬことを知っていたという。最後のスピーチを終えてアクロンの町へ帰ってすぐボブことロバート・ハルブロック・スミスは永眠し、前年に亡くなった妻アンのかたわらに葬られた。
* 抑うつの苦しみ
 既述したように、ビルには彼自身が自嘲的に「想像性胃潰瘍」と呼んでいたような心気傾向があり、ときどき考えこんで気力が萎えるといった気質の持ち主だったのだが、AA発足当初の数年は極貧のうちに他人の面倒をみているような気ぜわしい状況にあって、こうした気質もめだたなかった。1941年、ビルとロイスの夫婦は結婚23年目にしてはじめてニューヨーク郊外に彼らの持ち家を得ることができたのだが、このときも先に述べたハンクとの確執や一部メンバーの不信に出会ってオチオチしていられなかった。ビルにとって地獄の苦しみが訪れたのは、こうした問題も片づき、AAの運営にもゆとりの出てきた1944年はじめ頃からである。
 その前年1943年の10月からビルとロイスは3ヵ月にわたるアメリカ巡回の旅に出て、各地で大歓迎を受けた。ビルの話は聴衆を魅了し、その後のAAを支える多くの友人を得た旅だった。このすばらしい体験が終わってくつろげる自宅にもどった翌朝からビルは朝起きるのにも全力をふりしぼらなければならないようなきびしい抑うつ状態におちいった。この抑うつは1955年まで11年つづいたが、とくに初めの数年が激烈で、しばしば自殺への誘惑にかられた。当時のAAオフィスの秘書はフラフラと事務所にやってきては頭をかかえて支持も出せないでいるビルの姿を覚えている。
 ビルはこの持病を理解しようとしてしきりに文献をあさり、種々の薬物療法を受け、精神療法も受療から人のこころに関するさまざまのことを学んだが、効果ははかばかしくなかった。ついには絶望の中から「いったい、この苦しみは何なんだ?どうすればこの苦しみからメリットをひきだせるんだ?」と考えるようになった。回答は、かねてからビルがこころを寄せていたイタリアの放浪の神学者、聖フランシスは教えていた。この心境をつかむようになってから、抑うつは薄紙をはがすように軽くなってきた。ようやく抑うつと“和解”できるようになってきたのである。そして1955年、セントルイスでのAA20周年のコンベンションが終わってみると、抑うつはいつのまにやら去っていた。
 先に述べた12伝統はこうしたビルの抑うつの中から生まれ、これをAAメンバーの間に広める全米行脚の仕事も、この暗い日々の中で行われたわけである。
* ユングへの手紙
1961年、ビルはAAの発展に力を借してくれた人びとに感謝の手紙を書いたが、その筆頭にスイスの精神分析医、カール・ユング(Jung,C.)を選んだ。ビルの断酒を導いたのはエビィであるが、エビィはローランド・Hによって断酒に導かれ、そのローランドはユングによって回復の啓示を受けたからである。ビルの理解によればAAはユングの診察室から始まったのだ。戦術したようにローランドは1931年に、ユングの治療を受けてアメリカに戻り、すぐにスリップしてスイスに立ち戻ったところユングに治療を拒否されていた。以下はビルの手紙の一節である。
「その時あなたは彼に、もはや医術や精神医療ではどうにもならない、とおっしゃったそうです。あなたのこの率直で謙虚なことばが、私たちの会(AA)の基礎となったと私は確信しております。彼(ローランド)が、ほかに方法はないのですか?と尋ねると、霊的(spiritual)あるいは宗教的な経験をすれば、つまり、“真の転換”を経験すれば回復可能かもしれない、とあなたはおっしゃったそうです。その後この男はアメリカに帰り1930年に流行っていた福音主義運動の1つであるオックスフォード・グループに参加して飲酒を止めました」
 ユングは次のような返事(1961年6月30日、チューリヒ発)を書いてビルを驚喜させた。
「W様、お手紙たいへんうれしく拝見しました。その後ローランド・H氏からは何のご連絡もなく、どうなったものかと気にかかっておりました。・・・・・・彼のアルコールへの渇望は、ある霊的な渇きの低い水準の表現でした。その渇きとはわれわれの存在の一体性(sholeness)に対する渇きであり、中世風の言い方をすれば、神との一体化ということであったと思います。われわれの時代にこうした洞察を言葉にだして誤解されないで済むなどということがあり得るでしょうか?そのために私はH氏に伝える言葉を選ぶのに苦労し、あのように言ったのです・・・・・・」
 ビルはふたたび感謝の手紙を書いたが、ユングからの返事はなく、2ヵ月後にユングの死が伝わってきた。ビルのユングへの感謝の気持ちは25年にもわたってあたためられ、それを伝えるのにかろうじて間にあったわけである。
 ビルが死んだのは1971年11月24日、ビルとロイスの53回目の結婚記念日の当日だった。その日ビルはマイアミへ飛んでいた。彼の弱った心臓をマイアミ心臓研究所の最新技術にゆだねようとロイスらが考えたからです。機内でのビルはしっかりしていたが、マイアミについてロイスたちが自分の部屋にひきとってから深夜近くになって死んだ。ロイスが「おやすみ」を言ったとき、ビルはくつろいでやすらかそうだったという。
AAの12の伝統
1. 第一にすべきは共同の善である。個人の回復はAAの一体性にかかっている。
2. われわれのグループの目的のための最終権威は唯一つ、われわれのグループの良識の中にご自身を現される、愛なる神である。われわれのリーダーは、奉仕を委されたしもべに過ぎず、彼らは決して支配しない。
3. AAのメンバーになるために要求されることは、酒をやめたいという願望だけである。
4. 各グループは自律でなければならない。ただし、他のグループまたはAA全体に影響を及ぼす事柄においては、この限りではない。
5. 各グループの目的は唯一つ、まだ苦しんでいるアルコール中毒者にメッセージを運ぶことである。
[...]