院長からのメッセージ
第5回「アルコール問題を認められずに破滅する人のパターン」
2018.5.4
~アルコールの害を認めずに周囲を困らせる人の理由~
自己嫌悪というものに常に悩まされている人がいます。この自己嫌悪の正体について考えてみますと、自分が自分を嫌悪するわけですから、嫌悪を発射する自分とそれを受け取る自分に分かれることになります。
たとえば、飲酒して他人に醜態を見せてしまった、家族を傷つけるようなことをしてしまった、あるいは飲み過ぎて仕事に間に合わなかったり何らかの支障をきたしてしまったりということがあったとすると、それらの事柄に対して自己嫌悪になり悩むことになります。
ところが、この悩みには次のような前提が必要となります。「自分は決して人前で醜態を見せるような人間ではない。」この前提が無ければ、人前で醜態を見せてしまったことに対しての自己嫌悪は成り立ちません。同じように「自分は家族のことを大切に考えている」「仕事に対して責任を感じ大切にしている」という前提が無ければ前述のような自己嫌悪が成立することはありません。
しかし、
・ 飲酒して他人に醜態を見せてしまった
・ 飲酒の上で家族を傷つけるような言動をした
・ 深酒をして仕事の約束を守れなかった
などという自己嫌悪を受ける側と対極にあるもう一人の自分の姿は、どう考えてみても実際に自分が行なったことです。つまり、自己嫌悪を受ける側の自分の言動はまぎれもなく現実の自分の姿なのです。
それに対して、嫌悪を発射する側の自分のイメージはどこを探しても現実の基盤はありません。つまり、悩みや自己嫌悪の背景には、現実の言動と全く逆の自己のイメージが存在しているのです。
そもそも、この現実と反対の自己のイメージが無ければ、自己嫌悪や悩みは存在しなくなります。最初から、自分は人前で醜態をさらしても当然な人間であり、家族を傷つけても当然な人間であり、さらに仕事の約束を守れなくてもそれが自分の本性であると自己認識している人間でしたら、自己嫌悪や悩みにさいなまれる必要など全く無いのです。
このように考えていきますと、自己嫌悪とは自分が現実にしてしまった言動から目をそらす絶好の武器と言えます。飲み過ぎて人前で醜態をさらしたことも、飲んで家族を傷つけるような言動をしたことも、深酒のために仕事の約束を守れなかったことも、全てはたまたま起こった出来事であり本来の自分の姿ではなかったと自己防衛ができることになります。
自己嫌悪を利用することによって、アルコール依存症者は現実の自分を直視するといった辛い作業から逃れ、自分のイメージに逃げ込むことが可能となります。当然、その自己のイメージは現実の姿とは全く逆の、自分にとって都合の良いイメージとなっています。そして、このイメージから見た現実のだらしのない姿に対して、アルコール依存症者は自己嫌悪という手段でごまかし続けて行きます。このような自己嫌悪は、本当に現実を直視しての反省でないことは明らかです。
アルコール依存症者は、現実を現実として引き受けることを無意識のうちに拒否してしまい、その現実がいかに悲惨であっても自分が行なった行為と認めていないわけですから、また同じような飲酒上の問題行動を性懲りもなく繰り返すことになります。自己嫌悪という手段で現実の自分から目をそらし、それとは正反対の自己のイメージを守っている限り、アルコール依存症者に、断酒継続などという現実の姿を是正する本当の解決のためのエネルギーが生じてこないのは当然のことです。「私は飲酒問題については本当に悩んでいる。何とかしなければならない。だから、いつも酒を止めたいと思っている」と、言っているアルコール依存症者がいつまでも断酒を継続できずに同じような失敗を何度も繰り返すのは、以上のような心の二重構造に原因があるのです。
けれども、自己嫌悪という手段はいつまでも利用できるわけではありません。断酒という正しい解決策を見出せないまま飲酒問題行動を続け、そのために起こる自己嫌悪というパターンを繰り返す中で、アルコール依存症者は自分が本当は駄目な人間であると自らを追い込み、最後には死を選ばねばならない状態になることもあります。現実をごまかすための自己嫌悪であっても、人を自殺に追いやることが可能なのです。
さて、アルコール依存症者が自分のイメージ、現実に自分がとっている言動とは全く逆の自分のイメージを守るためのもう一つの手段があります。自己嫌悪で自己のイメージを守ることが出来なくなった人間がとる、もう一つの有効な手段とは「他罰的な態度」です。
では、他罰的な態度を、もう一度先の例を挙げてみましょう。
「飲酒の上で醜態を見せたのは自分の責任ではなく、積極的でなかった自分を無理に酒席に誘い込んだ飲み仲間が悪い」のであり、さらに「自分のことを理解してくれない周囲に苛立ち、たまたま飲み過ぎて心にもない醜態を見せただけだ」と考えたり、同じように「家族に悲しい思いをさせたのは自分の本意ではなく、本当は家族のことを大切に考えて働いて家計を支えてきたのに、そのことを感謝するどころか、たまたま飲み過ぎただけなのに、それを口うるさく罵る家族に責任がある」と考えたりします。また、「仕事上の約束を飲み過ぎて守れなかったことも、それほど大げさに非難されることではなく、それを非難する人々は自分の実績や能力を過小に評価しており、少しの失敗を咎められて非難されるのは筋違いである」と考えたりします。
従って、他罰的な態度においても、自分が現実に示した言動について自分の本意ではなく本当の自分の姿でもない、といった具合に否認することが可能なのです。
このように、現実の生の自分の姿を否認して現実とは逆のイメージ、つまり自分自身が思い込みたいイメージにしがみつくための手段として自分が自分を嫌いになる自己嫌悪や、他人の責任に転嫁する他罰的な態度には、共通する部分が多くあります。これらのような態度で自己を守っているアルコール依存症者にとって、周囲の人々が非難や説教で認めさせようとする現実の本当の自分の姿は、当人にとっての現実の自分の姿(イメージ)ではありません。
自己嫌悪にさいなまれているアルコール依存症者も、他罰的な態度で自分を守っているアルコール依存症者も、現実とは反対のイメージの中から自分の姿をとらえ、現実の自分を非難する周囲の人々に悲しい思いを感じたり反発を感じたりし、いずれの場合も自分は他人に誤解されやすい人間であると心の中で思っている場合が多いのです。
実は、アルコール依存症がどのような治療行為にも抵抗し治らなかったのも、この「心の障害=心の防衛規制」が大きな原因の一つになっていると言えるのです。従って、このような自己防衛の壁を破って自分の本当の姿を見つめることが、アルコール依存症者には絶対に必要です。しかし、現実の姿を認めるという作業は言葉で言うのは簡単ですが、実際にそれを実行することは大変困難なことでもあります。
今まで目をそらしていた現実の自分を直視し、それは紛れもなく自分が行なった言動であり本当の自分の姿であると認めることが自己洞察です。
ここに、自助グループなどで体験談を語ることの大きな意味があります。
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