アルコール症テキスト アルコール依存症の治療を障害するもの
他の人々は普通に飲酒しているのに、なぜあなたにはそれがで
きないのだ。これが、アルコール症者に対しての周囲の人々が持っている共
通の疑問点であり非難なのです。また、アルコール症者は家庭を
中心とした周囲の人々に節酒や禁酒の誓いを自ら宣言したり、逆
に約束させられたりするのですが、このような約束はことごとく
破られてしまいます。節酒や禁酒の約束をするが結局は守れない。
このような繰り返しの中でも、アルコール症者は周囲の信頼を失
ってゆくのです。
ある家族の方は、次のように言いました。
「うちの主人は身体を悪くして医者に酒を控えるようにと忠告を受
けても、また飲んでしまいます。家族や職場に迷惑をかけ続けても、
酒をやめることも接酒することもできなかったのです。
酒にだらしのない、意志の弱い、だめな人間なのです。つまり、人
間性がだめなのですね。」
アルコール症者に対する世間一般の評価は、この家族を言葉に代
表されています。ところが、このような避難こそが人間にとって最
もつらいことなのです。
世間の他の人々が簡単にできることが、あなたにだけできない。こ
れがアルコール症者が周囲の人々から長年にわたって、散々され続
けてきた非難です。このような非難に反発しない人間などどこにも
存在しないでしょう。
たとえば、次のような非難に人間はどのように対応するのでしょ
うか。
あなたは、なせオリンピックの選手のように速く走れないのだ。
このような非難に対しては、人間は何の反応もしません。特別な人
間にしかできないことを自分ができないからといって、別に恥ずか
しいことでもありませんし、むきになって言い訳をする必要もなく、
心をさわがせる必要も全くないからです。
しかし、アルコール症者が受けている周囲からの非難は、全く種
類が違います。
他の人々は普通に(節酒)できているのに、あなただけができない。
つまり、世間並みでないだめな人間が。
このような非難に対しては、人間は必ず反応します。なぜなら、誰
も自分のことを世間並みでないだめな人間とは決して認めたくないか
らです。
こうしてアルコール症者は、このような非難に対してむきになって
言い訳をしてみたり、自分をだめな人間とみなそうとする周囲の人々
に敵意さえ抱くようになってしまうのです。
くりかえしますが、世間並みでない人間という評価ほど人間の心を
傷つけるものはありません。
アルコール症者が、自分が世間並みの人間であることを証明しよう
として、節酒を試みたり専門治療を拒否して自分の意志力で禁酒する
と主張するのは、ここにも大きな原因があったわけです。
彼らは周囲の全ての人々から、意志の弱いだめな人間として非難さ
れ続け、それに対して反発しています。このような状態におかれた人
間にとって、医師だけが例外だとは考えられないのは当然のことです。
彼らにとって、アルコール専門の医師にかかるということ自体が自ら
をだめな人間として決定づけられてしまうように感じるからです。
このようにして、アルコール症の大部分が専門治療を受けることに
尻込みをしてしまいます。
アルコール症者は、決して世間で考えられているような意志の弱い
だめな人間ではありません。アルコール症の正しい治療は、本人と同
時に家族を中心とした周囲の人々も含めて、この病気の正しい知識を
身につけることから始まります。
しかし、現実にはアルコール症者に対するこのような誤解と偏見が
まだ根強く残っており、このために多くのアルコール症者が正しい治
療を受けることさえも拒否しているのが現状です。
さて、このような第一の誤解と偏見のため、アルコール症者は何とか
自分がアルコール症にまでなっていないことを、いつも証明したがっ
ているのです。そのためにはアルコール症に対する第二の誤解と偏見
が非常に役に立ちます。
第二の誤解と偏見とは、「アル中」という言葉に対して一般の人々が
持つイメージなのです。
それでは、このいわゆるアル中のイメージとはどんなものでしょ
うか。
(イ) 酒に酔って暴力をふるったり、暴言をはいたりして他人に迷惑をかけつづける人、つまり酩酊の
上で反道徳的・反社会的な行動の異常を示す人としてのイメージ
(ロ) 仕事もしないで昼間から酔いつぶれて道端や公園で寝転がっている生活破たん者としての
イメージ
(ハ) 幻覚や妄想など精神病状態になってしまい、精神病院に閉じ込めらている人というイメージ
以上のような姿が、一般の人々が持っているアル中のイメージで
あることが多いようです。
これが第二の誤解と偏見というわけです。
これらのイメージは、アルコール症者に大半をしめている静かなア
ルコール症、寝型タイプのアルコール症の人々にとって自己のアルコ
ール問題を否認する絶好の材料になります。
静かなアルコール症、寝型タイプのアルコール症については他章で
説明しますが、彼らは次のように言って自らのアルコール症を否認し
ます。
自分は飲んでもおとなしく寝るだけで、暴力や暴言はなかった。だ
からアル中ではない。
自分は家庭も仕事もある。昼間から酔いつぶれて、道端で寝ている
ようなアル中とは違う。
また、酒乱タイプの人々も同じように、自らのアルコール問題を否
認します。
自分は、時には飲み過ぎて暴れたことがあったかもしれないが、幻
覚や妄想なども経験したこともなければ、道端で酔いつぶれているよ
うな生活破たん者ではない。だからアル中ではない。
さらに、幻覚や妄想などを経験した人すら、この病気を懸命に否定
しようとします。
自分は飲んでも暴れたことはない。
生活破たん者まではいっていない。
あれ(幻覚・妄想)は何かの夢か間違いだったのだ。アルコールの
せいでそうなったのではない。
このようにして、世間にひろまっているアル中にイメージは、アル
コール症者間に相互の否認のかっこうの材料とされるのです。
意志の弱いだめな人間という第一の誤解と偏見が、彼らを大変苦し
めていると同時に、この第二の誤解と偏見は多くのアルコール症者を
正しい治療から遠ざけたり、また、やっと治療の場に登場しても自ら
の病気を認識する機会を失わせ、治療からの脱落を促したりしている
わけです。このような人々は、せっかくAAや断酒会に参加しても、
自分と違うところをやっきになって探そうと努力して、やはり自分は
違うという誤った結論をだしてしまうものです。
アルコール症に対する第三の誤解は、アルコール中毒という言葉自
体にあります。
この単純な誤解は、思いのほかこの病気の治療の大きな阻害要因と
なっているようです。
というのは、アルコール中毒状態になっているのだから、外来や入
院治療でアルコールの毒素さえ抜ければ、つまり解毒すれば治る、と
考えるアルコール症者や家族が非常に多くみられます。せっかく治療
を受けても、この第三の誤解が多くの患者さんやその家族を中途脱落
させているものです。
もう完全に酒気はぬけました。身体もよくなり、酒ももう欲しくあ
りません。もう治りました。
このような言葉を、我々医療者は何度となく聞かされています。
中毒という言葉の中という字は、~にあたるという意味です。
つまり、中毒とは読んで字のごとく毒にあたるということです。
フグに含まれているテトラドトキサンという毒素にあたる。鉛や水
銀など重金属などにあたる。
本来はこのように、毒物にあたる病気にのみ中毒という言葉は使わ
れるべきでしょう。そしてこのような病気であれば、確かに適切な解
毒の治療を受ければ、当然治る可能性はあります。
日本では、アルコール中毒・麻薬中毒という言葉が、一般的に用いら
れてきました。
しかし、これらは毒にあたる病気ではなくて、自らその薬物に依存
する病気なのです。つまりこれらの病気を正しく表現するには、アル
コール依存症・麻薬依存症と呼ぶべきです。
くりかえしますが、アルコール中毒ではなくアルコール依存症なの
です。言葉というものには、必ず一定のイメージが伴います。アルコ
ール中毒という言葉の持つイメージのためにある、一定期間アルコー
ルを解毒すれば治る、という第三の誤解が、さらにこの病気の治療途
中での脱落に拍車をかけているのが現状なのです。
アルコール症の治療に際して、今まで述べてきたような三つの誤解
と偏見を正し、アルコール症全体の正しい知識を患者さんだけでなく、
周囲の人々も持つことが大切なのです。