アルコール症テキスト アルコール依存症の治療を障害するもの
自己嫌悪というものに、常に悩まされている人がいます。この自己嫌悪というものの正体について少し考えてみましょう。
自己嫌悪というぐらいですから、自分が自分を嫌悪するわけです。つまり、嫌悪を発射する自分と、嫌悪を受ける自分に分かれるわけです。
たとえば、飲酒して醜態を他人に見せてしまった。あるいは家族を傷つけるようなことをしてしまった。飲み過ぎて仕事に間に合わなかったということがあったとすると、そのことに対して自己嫌悪になり悩むわけです。ところが、この悩みは次のような前提がなければなりません。つまり、自分は決して人前で醜態を見せるような人間ではない、という前提がなければ、人前で醜態を見せてしまったことに対して自己嫌悪は成立しないわけです。同じように、自分は家族のことを大切に考えている、仕事に対しても責任を感じているし大切にしている、という前提がなければ、前記のような自己嫌悪は成り立たないわけです。しかし、飲みすぎて、人前で醜態をさらした。
飲酒の上で、家族を傷つけるような行動をした。
深酒をして、仕事の約束を守れなかった。
などという自己嫌悪を受ける側のもう一人の自分の姿は、どう考えてみても実際に自分がしてしまった現実なのです。つまり、自己嫌悪を受ける側の自分の言動は、まぎれもなく現実の姿なのです。
それに反して、嫌悪を発射する側の自分のイメージは、どこを探しても現実の基盤はありません。つまり、悩みや自己嫌悪の背景には、現実の言動と全く逆の自己のイメージが存在するわけです。
この現実と反対の自己のイメージがなければ、そもそも自己嫌悪や悩みは存在しません。
前の例で考えてみると、最初から自分のことを人前で醜態を見せても当然な人間であり、家族を傷つけても当然な人間であり、さらに仕事の約束を守れなくてもそれが自分の本性であると自己認識している人間であれば、何も自己嫌悪や悩みにさいなまれる必要など全くないわけです。
このように考えていくと、自己嫌悪とは自分が現実にしてしまった言動から目をそらす絶好の武器になっているわけです。
先程の例をもう一度引き合いに出して考えると、飲み過ぎて人前で醜態をさらしたのも、飲んで家族を傷つけるような言動をしたのも、深酒のために仕事の約束を守れなかったことも、全てあれはたまたま起こった出来事であり自分の本当の姿ではなかったと自己防衛ができるわけです。
そして、このような自己嫌悪を利用することによって、アルコール症者は自分の現実を直視するといったつらい作業から免れ、自分のイメージに逃げ込むことが可能となります。当然、その自己のイメージは現実の姿と全く逆であることはいうまでもありません。
このようにしてアルコール症者は、現実の自分の姿を直視することなく全く逆の自己のイメージを創りだしています。そして、このイメージから見た現実のだらしない姿に対して、アルコール症者は自己嫌悪という手段でごまかし続けているわけです。ですから、このような自己嫌悪は本当に現実を直視したうえでの反省ではありません。
このようにしてアルコール症者は、現実を現実として引き受けることを無意識のうちに拒否し、その現実がいかに悲惨であっても自分がやった行為であると認めていないわけですから、また同じような飲酒上の問題行動を性懲りもなく繰り返すわけです。
このように、自己嫌悪という手段でもって自分の現実の姿から目をそらし、それとは正反対の自己のイメージを守っている限り、アルコール症者に断酒継続という現実の姿を是正する本当の解決のためのエネルギーなど生じてこないのは当然のことです。
私は、飲酒問題については本当に悩んでいる。何とかしなければならない。だから、いつも酒を止めたいと思っている。と言うアルコール症者が、いつまでたっても断酒を継続できず同じような失敗を何度も繰り返すのは、以上のような心の二重構造に原因があったからです。
さてそうは言っても、自己嫌悪という手段はいつまでも利用できるわけではありません。なぜなら以前に考察したように、断酒という正しい解決策を見いだせないまま飲酒問題行動を続け、そしてそのために起こる自己嫌悪というパターンを繰り返す中で、アルコール症者は自分は本当にだめな人間である、と自らを追い込み、最後には自殺までいかなければならない状態になってしまうからです。
現実をごまかすための自己嫌悪であっても、人を自殺に追いやることができるのです。
そこで自分のイメージ、つまり現実に自分がやっている言動とは全く逆のイメージを守るための、もう一つの手段について考えてみましょう。
自己嫌悪で、自己のイメージを守れなくなった人間にとって、もう一つの有効な手段は他罰的な態度です。
ここでもう一度、先の例を挙げて考えてみましょう。
飲酒の上で醜態を見せたのは自分の責任ではなく、嫌がる自分を無理に飲酒に引っ張り込んだ飲み仲間が悪いのであり、さらに自分のことを理解してくれない周囲にイラだち、たまたま飲み過ぎて心にもない醜態を見せたと考えるわけです。
同じように、家族に悲しい思いをさせたのも自分の本意ではなく、本当は家族のことを大切に考えて働いて家計を支えてきたはずなのに、そのことを感謝するどころかたまたま飲み過ぎたに過ぎないのに口うるさく罵る家族の責任であるわけです。
仕事の約束を飲み過ぎて守れなかったのも、それほど大げさに非難されることではなく、それを非難する人は自分の実績や能力を低く評価しており少しの失敗を咎められて非難されるのは筋違いである、と思えばよいわけです。
つまり、他罰的な態度においても自分が現実に示した言動について自分の本意でもなく、本当の自分の姿でもないといった具合に否認することが可能なのです。
このように、現実の生の自分の姿を否認して自己のイメージ(それは現実の姿とは逆のことが多いのですが)、つまり自分自身が思い込みたいイメージにしがみつくための手段として考えてみるならば、自分が自分を嫌いになる自己嫌悪も他人の責任に転嫁する他罰的な態度も共通する部分が多いわけです。これらのような態度で自己を守っているアルコール症者にとって、周囲の人々が非難や説教で何とか認めさせようとしている現実の姿は、当人にとって既に現実の自分ではないと先に述べたのは以上の理由によるわけです。
こうして、自己嫌悪にさいなまれているアルコール症者も、現実と正反対のイメージの中から自分自身をとらえ、現実を非難する周囲の人々に、悲しい思いを感じたりするわけです。そして、いずれの場合も等しく自分は他人に誤解されやすい人間である、と心の中で思っていることが多いのです。
実は、アルコール症がどのような治療行為にも抵抗し治らなったのも、この心の障害=心の防衛規制が大きな原因の一つといえるでしょう。
このような自己防衛の壁を破って自分の本当の姿を見つめることが、アルコール症者には絶対に必要になってきます。
しかし、現実の姿を認めるという作業は言葉としては簡単ですが、これを実行することは大変困難なことです。
今まで目をそらしていた現実を直視し、それは紛れもなく自分がやった本当の姿であると認めることを自己洞察といいます。
AAや断酒会について、またその中での体験談については、他章で詳しく述べることにします。
アルコール関連の心の障害とは、人間関係の障害と密接な関係にあります。
アルコール症が進行する中で、アルコール症者の人間関係の内容は崩壊していき、誰からも信頼されない状況にまで至ってしまうのです。
このような、誰からも受け入れられない状況に対して、アルコール症者は悩みや苦しみ、孤独感などの感情に支配されたり、逆に受け入れてくれない周囲の人々に敵意や反発を感じたり、不平や不満で常に不全感を持ち続けているのです。そして、受け入れられている人に対する羨みが嫉妬に変化していったり、その他アルコール症者の心の中はマイナスの感情で一杯になってしまいます。
この心の障害を、先程説明したような自己嫌悪や他罰的な態度で何とかごまかしている事実が、さらに断酒を不可能にしていると言ってもいいでしょう。
こうして、アルコール症者の心がマイナスの感情に支配されると、その苦しみから逃れようとしてさらにアルコールを求めるようになり、ますます心の傷を深めるといった悪循環が形成されます。しかし、飲酒時代のアルコール症者はこの事実になかなか気付きません。
飲酒の結果、周囲の人々から受け入れられなくなっているのに、彼らが考えているのは全く逆のことが多いのです。つまり彼らは周囲が受け入れられないから飲むのだ、と自己の飲酒を正当化するのです。
このような原因と結果の逆転は、アルコールに関連した全ての障害の部分でおこっているのですが、その詳しい考察は終章にゆずりこの章は終わります。